農業ジャーナリスト 薄井清 私がどのようにコメを作ってきたかということから、平成5年にコメ作りを断念せざるをえなかった事情をお話いたします。私がコメ作りしていた所は、多摩丘陵の間に入り組んだ田んぼで、古くから山裾から沸いてくる水を引いて開けた小山田という所です。コメ作りを断念したのは、水が使えなくなったとか、日本の農業の流れの中での、いろいろな事情がありましたが、平成5年の雨台風で、産業廃棄物が崖崩れのために田んぼに流れ込んできたため、止めざるをえなかったということが決定的な原因です。 コメ作りができなくなることを生産者の立場から言うと、情け容赦ないコストダウンのせいです。国際的には、日本のコメは高いから、国際競争力をつけろということが、経済界や政界、消費者団体からも言われています。地代とか生産資材はそんなに下げるわけにはいかないので、労賃でコストダウンするしかないのです。つまり、「手間ひまかけずにコメを作る」ということです。そうしたことが、「除草剤耐性などの遺伝子組み換えのイネがいいんじゃないか」という話になってくると思うんです。では、その対策はなにかと言えば、生産者としては、「とにかく多少高くても、日本のコメを買ってください」ということなんです。消費者としては、健康を維持するためには、安全な日本のコメを食べる、緑豊かな環境を残すために日本のコメを食べる、そういう風にもっていってもらわない限りどうにもならないと思います。 多摩丘陵というのは、田んぼと畑の率で表しますと、水田率が3割位でした。横浜開港後は畑は、ほとんど桑畑になっていたんですが、戦後になりますと、野菜やサツマイモもつくったりしたんです。その中でも、コメ作りだけは、手間ひまかけて作っていました。たった40アール位ですが、3か所に分かれている田んぼの草を刈るだけでも大変なんです。昭和20〜30年代にかけては、いろんの系統のイネを作りました。それは、花が咲いたとき、台風がきたら大変だということで、早生から中手、奥手を作って、危険を分散させるわけです。 多くの品種がつくれるほど自慢でした。コメ作りの作業は、水苗代、田植え、草取りとなりますが、草取りだけでも普通の農家で3回、熱心な農家では4回します。それぞれが、理由のある農作業なのです。 戦後、食管法で米価が決まり、米価の基準が生産費所得保障という形で実際決まってきました。企業の計算では、労賃はコストですが、農業生産では、手間賃なんです。10アールの生産に20人かかるということは、20日間の所得を保障してくれるということです。米価の計算は、肥料代とか籾代とかは年々あまり変わりません。一番変わるのは労働日数なんです。これが昭和30年以降の機械化により、20日が10日、終いには8日位になってしまうのです。機械を入れたために、12日間、失業したことになるのです。省力化が所得の保障を失わせ、出稼ぎで補なわなければならないという悪循環に陥るわけです。 昭和20年代終わりになると、機械、化学肥料とか農薬とかビニールがでてきます。今まで、農家が工夫してきたことを、企業が作って、農家が金で技術を買うことになるわけです。買う技術でコメをつくるのですから、コメも高く売らなければなくなるなる。1961年に農業を近代化しなさいということで農業基本法ができます。労働生産性を向上させるために政策的に手間ひまかけた農業はやめなさいということになります。工業がするのは加工生産ですが、農業は土を作るのです。土がイネを作るのです。そのイネがコメをつくってくれるという流れが、根本から変わってしまったのです。 今、飽食時代ですが、その大部分は輸入食品なんです。日本は自給、食料がないのに飽食を謳歌しています。私の田んぼは今、豚草に覆われて、「緑の砂漠」となっているんです。どこかで歯止めをかけないと、二十一世紀の生産現場というのは大変なことになるのではないかと思うわけです。今日の集まりの、遺伝子組み換えのイネをどうやって阻止するかということはその歯止めのきっかけになるのだと思います。 (文責 編集部) |